hitsujinooshiri

散文とかコラムとか。平成の清少納言を目指します。

4年前の今日何をしていたかは思い出せたけど、10年前の今日何をしていたかは思い出せなかったこととか。

3月11日の今日を迎えた時、14時46分に私は何を思うんだろうかと朝にぼんやり考えたけど、結局慌ただしく働いているとそのことを次に思い出した時には夕方になっていた。

あの日も私は外に出られず、こたつの中でこれからのことについて思い詰めていたんだった。大きな揺れで、床が割れた食器の破片で海になっていた。まだガラケーだった携帯に県外の友人たちからのメールがひっきりなしで届いてすぐ電波が途絶えた。死者何千人だなんてラジオからの速報を聞いても誤報だと家族誰もが思っていた。だって私たちは子供の頃からずっと「いつか宮城県沖地震がくるよ」って言い聞かせられて育って、それが実際に起こってなお生きてたんだもの。それから私たちが映像としてあの光景を見たのは数日後のことで、それまで本当の海に襲われた人たちがいることなんて、考えもつかなかった。あれから「被災者」って言葉がよく使われるようになったけど、私は紛れもなく当事者だった。

19歳だった私も、もう仙台を出て三年が経とうとしてるよ。もうすぐ、24歳になる。

私の世界一だいすきなひと、あいこのPVが最近カラオケでも流れるようになった。キラキラを歌いながら、懐かしいな10年前かって思ったけど、彼女を好きな世代の人たちが学生だった頃って、もっともっと前のアルバムがその青春だったんだなって気付いて急に胸が苦しくなった。だって、私も好きな男の子からグレイとかラルクアンシエルのCDを借りるような女子高生になりたかった。ジュディアンドマリーがミュージックステーションに出る金曜日を楽しみに一週間を送りたかった。JAMが解散したのはわたしが小学生の時。生まれてくるのが少し、遅すぎたなあ。

平成になんか生まれたくなかった。流行りの曲なんてなにがなんだかわかんなかった。大人とばかりつるんでいた私は、早くその大人たちに追いつきたいと背伸びしていたような気がするけど、今もうまさに、あの時わたし「大人」だと認識していた人たちの年齢に追いついてしまったよ。

23歳と11か月の今の私は、フリーターさえもやめてちゃんと社会に属することを選んでいる。社会の中で生きていると、どんどん感受性がしんでいくけど、社会性を持つことは生き延びる武器になるんだってちゃんと分かってる。

4年前のあの頃は、未来が見えずに今日も明日もやってくることがこわくてこわくて仕方なかったの。生きてはいても、半分死んでるような毎日だった。でも驕りだろうとあの時「生かされたんだな」って思ったんだよ。優劣とかじゃなく、そんなの誰が決められることでもなく、私は生き残った方の人間だ。電気もガスも交通機関も失って、27キロの道のりを自転車で友達に会いに行った。二人でへとへとになってなにもない地面に寝転がって見た空のこと、たぶん一生忘れられない。

仙台を出る時、あんなに家出みたいに急に告げたことだったのに、両親が車で被災地と呼ばれるところを全部まわって連れてってくれた。私と同じ名前の、日和山がある石巻気仙沼、お父さんの故郷の岩手の大船渡。「きっと向こうに行ったら誰からも聞かれることだから、見ておきなさい」って。車の中からでもいろんな横断幕が見えて、その殆どががんばろうとか、力を合わせて立ち上がろうとかそんな言葉たちだったのに、大船渡に着いた途端「なんとかなるべ」って文字が見えて、ああお父さんこういうところで育ったひとなんだなあって気が抜けて安心したな。

案の定、出身地を聞かれるとお決まりのように「地震大丈夫だった?」って返されるのに最初のうちは辟易していたけど、もう最近はほとんどそんなこと言われなくなっているのも肌で感じていた。でもね、私は何度記憶が薄れたってまた思い出したいなって思う。未来にそれを繋ぐのも、きっと大人になった私の役目だ。